昭和のいる・こいるの現在と死因|伝説の「ヘーヘーホーホー」漫才の軌跡
スーツのポケットに手を突っ込み、体をゆらゆらと揺らしながら「ヘーヘーホーホー」「しょうがねぇなぁ」と脱力感たっぷりに相槌を打つ昭和こいるさん。その隣で、早口かつ甲高い声でまくし立てる昭和のいるさん。寄席の空気を一瞬で和ませ、客席を大爆笑の渦へと巻き込んだ二人の名人芸は、昭和・平成・令和の演芸史において燦然と輝く金字塔です。
テレビ番組『爆笑オンエアバトル』でのレジェンド出演や、浅草の寄席での爆笑の高座を通じて、幅広い世代のファンから親しまれました。二人とも表舞台で見かけなくなって久しい今、「二人は現在どうしているのか」「病気の噂や死因の真相を知りたい」と気になっている方も少なくありません。浅草演芸ホールの看板として愛され続けた昭和のいる・こいるの足跡と、知られざるドラマを徹底取材しました。
📌 【この記事の重要ポイントまとめ】
- 要点1:相方の昭和こいるさんは2022年5月に前立腺がん(享年77)、昭和のいるさんは2023年3月に誤嚥性肺炎(享年75)でそれぞれ逝去され、名コンビは天国へと旅立ちました。
- 要点2:長年闘病を続けたのいるさんを、こいるさんはピン芸人として舞台を守りながら最後まで待ち続け、二人の深い絆は演芸界の伝説となっています。
- 要点3:「ヘーヘーホーホー」「しょうがねぇなぁ」という唯一無二のスタイルは、漫才協会や浅草の舞台でナイツや爆笑問題をはじめとする多くの後輩芸人たちに多大な影響を与えました。
【真相】昭和のいる・こいるの現在と病気・死因|天国へと旅立った名コンビ
昭和の演芸ブームから長きにわたり第一線で活躍してきた昭和のいる・こいるですが、結論からお伝えすると、二人はすでに他界されています。現在、二人が並び立つ舞台を直接見ることは叶いませんが、その至高の話芸は今なお語り草となっています。
コンビの歯車が大きく動き出したのは、2010年12月のことでした。ツッコミと鋭い語り口を担当していた昭和のいるさんが脳梗塞を発症して緊急入院。一命は取り留めたものの、右半身の麻痺や言語障害が残り、長期の療養生活を余儀なくされました。復帰を目指して懸命なリハビリが続けられましたが、高座への復帰は困難な状況が続いたのです。
その後、相方の昭和こいるさんはピン芸人として舞台を守り続けましたが、2021年12月に前立腺がんを患っていることを公表。治療を続けながら高座復帰を目指したものの、病状は好転せず、2022年5月30日に都内の病院で逝去(享年77)しました。
そして相棒の旅立ちから約10か月後の2023年3月20日、長年療養生活を送っていた昭和のいるさんも誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の病院で息を引き取りました(享年75)。闘病を支え続けた関係者に見守られながらの旅立ちでした。昭和・平成の浅草を笑わせ尽くした二人は、天国で再びコンビを組み直したに違いありません。
「ヘーヘーホーホー」と「しょうがねぇなぁ」の誕生秘話|適当漫才という境地
昭和のいる・こいるの代名詞といえば、こいるさんの「ヘーヘーホーホー」「はいはい」「そんなこと言ったってしょうがねぇなぁ」という脱力感あふれる相槌です。この芸風は最初から完成していたわけではありませんでした。
師匠である獅子てんや・瀬戸のりやに入門した当初は、きっちりとネタを暗記して演じる正統派のしゃべくり漫才を披露していました。しかし、どんなに一生懸命ネタを繰り広げても、寄席の目の肥えた観客になかなかウケない苦悩の時期が続きます。
転機が訪れたのは、ある日の舞台でした。のいるさんがテンポよくまくし立てる話題に対し、ネタが飛んだのか疲れていたのか、こいるさんがスーツのポケットに手を入れたまま「ヘーヘー、ホーホー、しょうがねぇなぁ」と適当に聞き流したところ、客席から割れんばかりの大爆笑が起きたのです。
「真面目に話す人間を、徹底的に適当にいなす」という日常の可笑しみを芸へと昇華させた瞬間でした。以来、緻密に計算された「適当さ」を極め、誰にも真似できない脱力系しゃべくり漫才の境地を切り拓いていきました。
昭和こいるの経歴と破天荒な芸人人生|ピン芸人としても愛された人間力
昭和こいる(本名:幡人良和)さんは1944年に群馬県で誕生しました。若い頃から人を笑わせることが大好きで、演芸の世界に飛び込むと、1970年に昭和のいるさんと正式にコンビを結成します。
1980年には「NHK漫才コンクール」で最優秀賞を受賞。以降、テレビのバラエティ番組や寄席の看板として着実にステップアップしていきました。文化庁芸術祭大賞演芸部門をはじめとする数々の名誉ある賞を受賞したことからも、その実力は折り紙付きです。
のいるさんが病気で倒れた2010年以降、こいるさんは一人で舞台に立ち続けました。ギター漫談やウクレレ漫談、あるいは一人で「ヘーヘーホーホー」とつぶやきながら観客と会話する独自の高座を展開。「のいるが戻ってくるまでの留守番だから」と笑いながら語り、最後までコンビの屋号を背負い続けた姿は、演芸界に深い感動を与えました。
浅草演芸ホールと漫才協会を支えた黄金期|舞台裏の温かなエピソード
昭和のいる・こいるの主戦場といえば、東京・浅草にある浅草演芸ホールや東洋館(浅草フランス座演芸場東洋館)でした。出番を告げる出囃子が鳴り、二人が小走りでマイクに向かうだけで、客席には温かい笑いと期待感が満ち溢れました。
二人は一般社団法人漫才協会の重鎮としても長年尽力しました。こいるさんは副会長や理事、相談役を歴任し、低迷期にあった浅草の漫才界を立て直すべく、若手芸人の育成や劇場の活性化に奔走した功労者です。
舞台裏での二人は、気さくで面倒見のいい優しい師匠方として知られていました。楽屋ではこいるさんが若手に「おい、ちゃんと飯食ってんのか?」と声をかけ、小遣いを握らせる姿が日常茶飯事だったといいます。のいるさんも普段は非常に物静かで礼儀正しく、舞台上でのマシンガントークとのギャップが多くの後輩から愛されていました。
芸人仲間や弟子からの評判|ナイツや爆笑問題が語る「究極のしゃべくり漫才」
昭和のいる・こいるの話芸は、観客だけでなく同業者であるプロの芸人たちから極めて高い評判を獲得していました。直弟子という枠組みにとどまらず、浅草に集う若手芸人全員が二人の薫陶を受けた「事実上の門下生」と言っても過言ではありません。
漫才協会の後輩であるナイツの塙宣之さんは、「漫才の最終形はのいる・こいる師匠。何を話しているか分からないのに面白いというのは、芸人にとって究極の理想」と公言して憚りません。台本を超越した会話の間合いやトーンだけで観客を惹きつける力は、若手漫才師にとって最高のお手本でした。
また、爆笑問題の太田光さんも二人の大ファンであることを公言しており、バラエティ番組で幾度となくその魅力を熱弁しています。毒舌や過激な演出に頼らず、人間味と愛嬌だけで万人を笑わせる芸風は、「誰も傷つけない笑い」の先駆者として、時代を超えて尊敬を集めています。
【昭和のいる・こいる】に関するよくある質問(FAQ)
Q1:昭和のいる・こいるに直弟子はいたのですか?
A1:専属の付き人としての直弟子を大勢抱えるスタイルではありませんでしたが、獅子てんや・瀬戸のりや一門の後輩たちや漫才協会の若手芸人(ナイツ、U字工事、ロケット団など)が実質的な弟子筋として師事していました。彼らは今も高座で二人のエピソードを語り継いでいます。
Q2:「ヘーヘーホーホー」の相槌は本当に台本がなかったのですか?
A2:ベースとなる話題や筋道は決まっていましたが、こいるさんの相槌やタイミングの多くはアドリブでした。のいるさんがその日の観客の反応を見て繰り出す話題に対し、こいるさんがどう脱力して返すかという「生きた掛け合い」こそが、唯一無二の面白さを生み出していました。
Q3:二人の過去の漫才を見ることは現在でも可能ですか?
A3:演芸番組のアーカイブDVDや、公式に配信されている寄席の演芸チャンネル、追悼特番の映像などを通じて視聴可能です。また、テレビ東京系の『新春浅草お茶の間寄席』などの過去アーカイブでもその傑作漫才に触れることができます。
まとめ:浅草の空に響き続ける笑い声と不滅の話芸
昭和のいる・こいるが残した「ヘーヘーホーホー」「しょうがねぇなぁ」というフレーズは、単なるギャグの枠組みを越え、世の中の理不尽や日々の悩みをふわりと包み込んで吹き飛ばしてくれる魔法の言葉でした。
病魔との闘いの末、二人は惜しまれつつこの世を去りましたが、浅草演芸ホールの舞台に刻み込まれた爆笑の記憶が色褪せることはありません。ギスギスしがちな現代だからこそ、すべてを笑いに変えて脱力させてくれた昭和のいる・こいるの名人芸は、これからも多くの人々の心の中で生き続けます。 (出典: 昭和 の いる こ いる(Yahoo!ニュース))